押熊と琵琶湖

昔仲哀天皇という帝が坐したが、お妃の一人が息長帯比賣命という方だった。 さて当時はまだ九州に熊襲と呼ばれる民がいたので、これが帝に従わないから仲哀天皇もこれを討つことにしたのである。 筑紫に帝が陣入りなさって、熊襲を討つ先駆けに神託を乞いなさった。よりしろは奥さんの息長帯比賣命であった。旦那さんの仲哀帝は、琴を弾きなさって神霊を呼ぶのである。 たちまち神がかりになった息長帯比賣命は仰った。 「西の方に国がある。金銀財宝があるのだけど、その国をあなたに帰服させますよ」 オヤと思った帝、返事をするに、 「高いところから見ても西に国は見えませんよ。ただ海ばかりです」 この神様、うそを言ってはると思った帝、琴を弾くのをやめてしまったが神様大層お怒りになり、 「その国、あんたが治めることはできひんわ。あんたは死ぬがよい」 と仰った。 神がかりになった比賣の言葉は、そばにいた建内宿禰さんが聞いていたのだけれど、この大臣が 「あかん。帝さま、やっぱり琴をお弾きになったほうがいいですよ!」 と申し上げたが、帝、琴を弾きなおすも弾き方がしぶしぶでいいかげんである。 すぐに琴の音がやんだ。 帝は亡くなった。
神様の仰るには、その国を治めるのは比賣のおなかにおられる御子だということだった。 それならと大軍もって息長帯比賣命、海を渡って朝鮮、当時の新羅に至ったところ、古事記にいわく、新羅は降伏、百済は大和の駐屯地となった。妊娠していた彼女は筑紫に帰る途中産気づいたが筑紫に帰るまで頑張った。産まれた御子は次代の応神天皇となられた。
御子もお生まれになったし、新羅征討も終わったのであとは大和に帰るだけである。しかし比賣、不穏な空気を察知し、 「お生まれになった御子は亡くなってしまわれた」 とひとに言わせて、御子を喪船に乗せて瀬戸内海をだんだん難波へと進む。 はたして反乱の気配は正しかった。 仲哀天皇の別の妃の大中津比賣命、その息子の香坂王と忍熊王が、天下を簒奪しようと企んでいたのだ。 息長帯比賣命の御子が亡くなったと聞けば、あとはそのなきがらを確認し、邪魔な息長帯比賣命を排除すれば大和をとれると思ったものか。
彼らは兵庫の武庫まで来ていくさの吉凶を占った。 狩りをしてみて、その狩りの成果で占うのである。 香坂王はくぬぎの木に登って狩りを見ていた。 するとたちまち巨大な猪が現れ、くぬぎの木を掘り倒して樹上の王を食べてしまった。 香坂王は死んだ。 とんでもない結果である。 あきらかな凶兆にもかかわらず、忍熊王は軍隊を率い、潜伏、比賣の喪船がやって来たとき、 「今だ!」 とばかりに攻め込んだ。 比賣の側もこれを待っていたのだ。 「今だ!」 喪船の中からは遺体どころか、 武装した大量の軍隊が上陸、忍熊王の軍勢に襲いかかった。 戦いは熾烈を極めたが忍熊王は劣勢、しだいにおされて山城まで後退したが、敵もさるもの、ここを先途と振り向いて正面から息長帯比賣命の軍勢と対決した。戦いは激化する。 このままでは被害甚大と見たものか、比賣の陣中にひとりの男あり、大将の難波根子建振熊命、丸邇氏の偉大な祖先である。 彼はたばかって部下にこう言わせた。 「息長帯比賣命は亡くなった!もうおれたちが戦う理由は無い!戦いをやめるんだ」 忍熊軍の大将、伊佐比宿禰、これを信じて、弓の弦を切って降参の体をしめす敵軍に対し、みずから弓をはずさせ軍隊を控えさせた。 「やったぜ」 比賣軍、罠にかかった敵軍を見るや、もとどり、つまり自分の髪の毛の中から隠していた弓弦を取り出すと、ただちに弓に弦を張って戦闘態勢に入る。 「だましたな!」 いくさとは非情なもの、だまし討ちにあった忍熊軍、劣勢につぐ劣勢、とうとう逢坂、それから沙沙波(大津市瀬田川以西付近)まで来て、あわれ、ことごとく斬られて散った。 最後に残ったのは大将の伊佐比宿禰と忍熊王である。 彼らは小舟に乗り、琵琶湖に乗り出した。 逃げ場の無い彼らの命運は決まっていた。 かれらはひとつ歌を歌う。
いざ吾君 振熊が 痛手負はずは 鳰鳥の 淡海の湖に 濳きせなわ (さああなた、 力強い熊が、重い手傷を負わないまま、かいつぶりのようにこの琵琶湖の海にもぐってしまいたいことよ)
二人は入水した。二人は死んだ。
さて奈良市のはずれに押熊という土地があるのであって、学園前、西大寺、高の原のちょうど中間あたりにあるから交通量も多く、郊外型店舗の乱立する交差点となっている。 ここはかつて息長帯比賣命に反逆した忍熊王と香坂命の故地である。 道からはずれて押熊町の集落に入ると竹やぶがあり、そこに「忍熊王子 香坂王子旧跡地」と書いた石碑がある。彼らの墓所と伝わる地である。 近くの押熊王子神社では毎年四月に、忍熊王を偲んで業をやすみ、よもぎの団子を祖先に供え、隣家に配るというが、 いまも行われているかは定かでない。