前の大学

衣笠の大学の敷地は狭くて一周二十分もかからない。その中に数個の学部があって、何千の人間がいるからたまらない。学内は常に騒がしく、背の高い髪を染めた威勢のよい男、男たちに取り巻かれて輝くばかり笑顔の黒髪の女、答案を書きやすい学説を模索する眼鏡のやせた男、メガバンクを狙う抜け目ない実力主義の女、さまざまな人間が行っては来て、ごみを散らかし、嬌声を上げ、街へ繰り出しては酒を飲んで痴態を晒している。このごろ新しく学部が増えた。狭い学内はいよいよ狭くなった。 わずかな金でビビンバ飯を地下生協で購い、地上に出てようやく見つけたベンチに座って食べる。冷えた飯は悲しい味がする。金はないが、どうにか塾講師もくびにならずに、奨学金で学費を払えているのは幸いであった。遊ぶ金はほとんどなく、塾講師の金は飯代と交通費に消え行く。しかし勉強できるのは幸いであった。 目の前を賑やかな男女が過ぎ行く。 きれいな服装、優れた体格、彼らが裕福でかつ有能であることが全身で表現されていた。 私は苦々しくなった。醜い嫉妬と知りながら、中学、高校とも同級生らから無能と軽蔑され、塾では不手際を罵倒されてきた私は、自己愛から来るしみじみとした憎しみを味わわざるを得なかった。そしてそれらの自己愛を逸らせる術も持っていなかった。
「あの」 不意に声をかけられ、私は殺伐とした視線を投げた。 「お時間、よろしいですか」 そこには猫背で眼鏡をかけて、視線の定まらない男がいた。 「なんですか」 「この絵をみてください」 男が示した絵には、崖から垂れた綱につかまりながら、崖の中腹にある蜂の巣から満面の笑みで蜂蜜をむさぼる男が描かれていた。男の下は海であり、海龍らしき怪物が彼を食べようと首を伸ばしている。 「これはあなたです」 猫背の男は視線を定めないままそう告げた。 男によれば、トルストイの説では人間はこのように現状に甘んじている存在であって、蜂蜜を楽しむ間、身を支える綱がたよりないことも、身の回りに怪物がうようよしていることも知らないのだそうだった。 「はあ」 私は間抜けな返事をした。 男の説には一理あるかもしれない。しかしなぜそれを私に言うのか。私の食べている冷えたビビンバ飯が蜂蜜に見えたのか。私がこの絵の男のように、満面の笑顔で自得していたと言うのか。 「もし、興味があるなら」 猫背の男は続ける。 「文学部の××号室にゼミがありますから、来てください。これから一緒に、どうです」 「忙しいので」 私は彼の申し出を断った。 「それではまた」 猫背の男は立ち去る私に意外そうな顔を向けた。私は食いかけの飯を鞄にしまって大学を出た。